神韻縹渺

鑑賞日記。男。

ショートショートフィルムフェスティバル 2

 

 

 

ショートショートフィルムフェスティバル & アジア 2018 in 横浜の記事第2弾です。今回は僕が1日目の最後に観た『王様の選択』について書きます。

 

 

私たちはいつだって社会的身分を手離すことができる
『王様の選択』

 

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新谷寛行/0:20:52/日本/ドラマ/2018 GOETHE より


本作を〈ファルスの映画〉と呼びたい。これをはじめに記しておきます。

 

『王様の選択』はアンデルセンのよく知られた童話『裸の王様』を題材としています。

主人公は「ノリで」市長になってしまった中年男性。そんな彼のために有名なデザイナーが法被を仕立ててくれました。今日はその法被のお披露目記者会見の日。それなのになかなか市長がやってきません。心配した市長の友人2人が控室に市長を迎えに行きますが、呼ばれて現れた市長はパンツ一丁・・・。困惑する2人は「裸じゃね?」と正直に語ります。

 

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GOETHE より

 

市長自身も自分が裸であることを自認していますが、呼びに来た市長の秘書や会見スタッフなどは、みな見て見ぬ振り。「よい法被だと思います」と嘘つきます。

 

本作では〈服〉が重要な素材となっています。話の後半になると、本作において服は人間の社会的身分のメタファーであることが理解されます。我われはわけのわからないなにかを背負わされている。それは私たちに役割=社会的身分を負わせている。そのメタファーが本作では服なのです。

本作の最後、みなが市長と同じように服を脱ぎます。秘書が服を脱ぎ、運営スタッフが服を脱ぎ、ニュースキャスターが服を脱ぎ……。服を脱ぐことによって、彼らは社会的身分から自由になるのです。社会的身分は職業(市長、秘書、スタッフ、カメラマンなど)のみならず、生活にまで及びます(母親、父親、友人、恋人など)。服を脱いで裸になることで、社会的身分から解放されるのです。

 

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主催者サイト より

 

事実、人間の社会的身分を決めるのは、その人ではなくその人の周辺にある物です。

先日、英語の勉強をしていて気がついたのですが、chairpersonという言葉があります。「議長」を意味しますが、敢えて額面通りに訳すと「椅子のひと」という意味になります。正にこれです。その人が議長であることを示すのは、そのひと本人なのではなく椅子なのです。他者に彼を議長であることを、椅子が示すのです。

 

従って、社会的身分は私から外在化されているのです。二者は決して溶け合うことがありません。この事実を知ったとき、私はどう思うでしょうか?   例えば傲慢な市長を想像してみましょう。「私こそが市長である」と思っていたのに、実はそうではなかった。社会的身分と、社会的身分が担保する力は外在化されていた。ここにはギャップがあるのです。このギャップ、つまり「持っていると思っていたものを持っていなかった」ことの自覚は、精神分析学でいうところの男性的な〈象徴的去勢〉に当たります。そして社会的身分と、社会的身分が保証する権力は精神分析学的な〈ファルス〉に相当します。

 

 

私の直接的なアイデンティティと象徴的アイデンティティ(私が<大文字の他者>にとって、あるいは<大文字の他者>において何者かであることを規定する、象徴的な仮面や称号)との間のこの落差が、ラカンのいう「象徴的去勢」であり、そのシニフィアンはファロス(男根)である。・・・伝統的な即位式や任官式では、権力を象徴する物が、それを手に入れる主体を、権力を行使する立場に立たせる。王が手に錫杖をもち、王冠をかぶれば、彼の言葉は王の言葉として受け取られる。こうしたしるしは外的なものであり、私の本質の一部ではない。私はそれを身につける。それを身にまとって、権力を行使する。だからそれは、ありのままの私と私が行使する権力との落差(私は自分の機能のレベルでは完全ではない)を生み出すことによって、私を「去勢」する。これが悪名高い「象徴的去勢」の意味である。・・・去勢とは、ありのままの私と、私にある特定の地位と権威を与えてくれる象徴的称号との、落差のことである。この厳密な意味において、それは、権力の反対物などではけっしてなく、権力と同義である。その落差が私に権力を授ける。・・・ファロスとはいわば身体なき器官であり、私はそれを身につけ、それは私の体に付着するが、けっしてその器官的一部とはならず、ちぐはぐではみ出た人工装着物として永遠に目立ち続ける。  –––– S.ジジェクラカンはこう読め!』(鈴木晶訳)

 

男性の場合は、自分が持っているものを本当は持っていないということを、女性の場合は、自分が持っていないものを持っていないということを認識する –––– J.ラカンセミネールⅤ』(松本卓也訳)

 

 

『王様の選択』に戻ります。本作ではこの象徴的去勢が楽観的に描かれています。ファルス=社会的身分は、不相応な人間にとってしばしば苦しみの種となります –––– 監督自身、メイキングの中で本作のテーマが「バカな人」と「ふさわしくない仕事をしている人」であることを明かしています –––– 。背負いたくないのに、背負える人間じゃないのに背負わなければならない社会的あるいは生活的役割…。ファルスは重石になり得るのです。「じゃあ、いっそファルスを棄ててしまおうよ!」というのが本作の物語なのです。積極的にファルスと自分のギャップを自覚することで、訳の分からない苦しみから解放されよう!   

人びとが市長に続いて服を脱ぐあの滑稽なシーンは、ファルスに苦しむ人びとが象徴的去勢に進んで飛び込んでいく様子を描いているのです。

 

僕は最初に『王様の選択』をファルスの映画と言いました。いうまでもなく、それは象徴的去勢を描いた映画だからです。しかし、それだけではありません。本作を象徴的去勢を楽観的に捉えた作品であることを見逃してはいけません。これは〈笑劇〉なのです。だから、僕は本作を –––– 〈ファルス phallus〉と〈笑劇 Farce〉の二重の意味を込めて  –––– 〈ファルスの映画〉と呼ぶのです。

 

 

 

以上、1日目に観たショートフィルム2本の紹介・批評でした –––– 批評と呼んでよいのか自信はありませんが ––––。

2日目の紹介・批評は、次次回にします。