神韻縹渺

鑑賞日記。男。

最近買ったCD

 

 

久々の投稿です。書きたいことはあるんだけれど、なかなか時間とエネルギーをブログに割くことができない!

 

 

でも一応ブログを続ける気はあるので、最近購入したアルバムを紹介します –––– がっつりとしたレビューは書きません –––– 。

 

 

 

カルロス・クライバー / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
 
ベートーヴェン交響曲第5番・第7番』
 

ベートーヴェン:交響曲第5番「運命」&第7番

 

東京ニューシティ管弦楽団が定演で『第7番』を演奏したのを契機に買ってみました。第7番は『のだめカンタービレ』のテーマ・ソングとして国内では有名。東京ニューシティ管弦楽団のパンフレットで知ったのですが、一時期は「この曲さえプログラムに取り上げれば満席」という事態が頻繁だったとか。

 

 

 

ヴァレリーゲルギエフ / エフゲニー・キーシン / ロンドン交響楽団
 
ラフマニノフピアノ協奏曲第2番・絵画的練習曲』(輸入盤)

 

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番&音の絵

 

キーシン16歳時の演奏。たしか宇野功芳さんだった気がするのですが、「キーシンは大器晩成型ではない」天才、天性の天才だと『クラシックの名盤 演奏家編』に書かれていたと思います。年齢を評価の材料に持ち込んでよいのか否かには目を瞑るとして、ただただ凄い。

ゲルギエフは好きな指揮者のひとり。かつて東京文化会館プロコフィエフ『ロメオとジュリエット』のバレエが催されましたが、そのときの指揮者は彼でした。人生初のバレエ鑑賞だったのですが、大満足でした。もちろんバレエもオケもマリインスキー。ゲルギエフは演奏会に何度か本作を取り上げていますから、きっとお気に入りなんでしょう。

 

 

 

スヴャストラフ・リヒテル
 
シューベルト『Sviatoslav Richter plays Franz Schubert』(輸入盤)

 

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シューベルトのピアノ作品といえばリヒテル。彼のシューベルトによるピアノソナタ2品。『第19番』はライヴ録音。『第16番』はスタジオ録音。

録音が古いため音質が最高とは言えないが、いずれも名演。このアルバムは日本では発売されていないらしいです。たいへん真摯な演奏。端正ながらもロマンティック。

 

 

 

飯森範親 / 東京交響楽団
 
湯浅譲二オーケストラル・シーン』

オーケストラル・シーン

 

収録作品は『クロノプラスティック –––– ヤニス・クセナキスの追憶に ––––』、『交響組曲奥の細道」』、『芭蕉の情景』より、『和解のレクイエム』より。

湯浅譲二の作品をしっかり聴くのはこれが初めて。これといって新しいものはなさそうですが、彼の理知的なオーケストレーションは好きです。『和解のレクイエム』の「レスポンソリウム」は若しかしたら秘曲かも知れません。

そういえば彼の男声合唱組曲『富士山』を聴いたことがあるのを思い出しました。『富士山』といえば多田武彦清水脩柴田南雄ですが実は湯浅も作曲しています。

 

 

 

大友直人 / 新星日本交響楽団
 
伊福部昭釧路湿原 交響的音画』

 

釧路湿原 交響的音画

 

釧路市の委嘱作品。ラムサール条約締結の折に上映された映像のために作られました。全4楽章。全体的に静かな脈動を感じさせる作品なので、『日本狂詩曲』や『シンフォニア・タプカーラ』のような荒々しさはありません。

祖母の家で流したとき、第2楽章の主題部分で祖母が「なんだか鳥が飛んでるようね」と言っていました。実際、この部分は鶴の映像に使われたらしいです。北海道出身の祖母の感性と、同じく北海道出身の伊福部の感性の交差があったのでしょうか。

 

 

ショートショートフィルムフェスティバル 2

 

 

 

ショートショートフィルムフェスティバル & アジア 2018 in 横浜の記事第2弾です。今回は僕が1日目の最後に観た『王様の選択』について書きます。

 

 

私たちはいつだって社会的身分を手離すことができる
『王様の選択』

 

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新谷寛行/0:20:52/日本/ドラマ/2018 GOETHE より


本作を〈ファルスの映画〉と呼びたい。これをはじめに記しておきます。

 

『王様の選択』はアンデルセンのよく知られた童話『裸の王様』を題材としています。

主人公は「ノリで」市長になってしまった中年男性。そんな彼のために有名なデザイナーが法被を仕立ててくれました。今日はその法被のお披露目記者会見の日。それなのになかなか市長がやってきません。心配した市長の友人2人が控室に市長を迎えに行きますが、呼ばれて現れた市長はパンツ一丁・・・。困惑する2人は「裸じゃね?」と正直に語ります。

 

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GOETHE より

 

市長自身も自分が裸であることを自認していますが、呼びに来た市長の秘書や会見スタッフなどは、みな見て見ぬ振り。「よい法被だと思います」と嘘つきます。

 

本作では〈服〉が重要な素材となっています。話の後半になると、本作において服は人間の社会的身分のメタファーであることが理解されます。我われはわけのわからないなにかを背負わされている。それは私たちに役割=社会的身分を負わせている。そのメタファーが本作では服なのです。

本作の最後、みなが市長と同じように服を脱ぎます。秘書が服を脱ぎ、運営スタッフが服を脱ぎ、ニュースキャスターが服を脱ぎ……。服を脱ぐことによって、彼らは社会的身分から自由になるのです。社会的身分は職業(市長、秘書、スタッフ、カメラマンなど)のみならず、生活にまで及びます(母親、父親、友人、恋人など)。服を脱いで裸になることで、社会的身分から解放されるのです。

 

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主催者サイト より

 

事実、人間の社会的身分を決めるのは、その人ではなくその人の周辺にある物です。

先日、英語の勉強をしていて気がついたのですが、chairpersonという言葉があります。「議長」を意味しますが、敢えて額面通りに訳すと「椅子のひと」という意味になります。正にこれです。その人が議長であることを示すのは、そのひと本人なのではなく椅子なのです。他者に彼を議長であることを、椅子が示すのです。

 

従って、社会的身分は私から外在化されているのです。二者は決して溶け合うことがありません。この事実を知ったとき、私はどう思うでしょうか?   例えば傲慢な市長を想像してみましょう。「私こそが市長である」と思っていたのに、実はそうではなかった。社会的身分と、社会的身分が担保する力は外在化されていた。ここにはギャップがあるのです。このギャップ、つまり「持っていると思っていたものを持っていなかった」ことの自覚は、精神分析学でいうところの男性的な〈象徴的去勢〉に当たります。そして社会的身分と、社会的身分が保証する権力は精神分析学的な〈ファルス〉に相当します。

 

 

私の直接的なアイデンティティと象徴的アイデンティティ(私が<大文字の他者>にとって、あるいは<大文字の他者>において何者かであることを規定する、象徴的な仮面や称号)との間のこの落差が、ラカンのいう「象徴的去勢」であり、そのシニフィアンはファロス(男根)である。・・・伝統的な即位式や任官式では、権力を象徴する物が、それを手に入れる主体を、権力を行使する立場に立たせる。王が手に錫杖をもち、王冠をかぶれば、彼の言葉は王の言葉として受け取られる。こうしたしるしは外的なものであり、私の本質の一部ではない。私はそれを身につける。それを身にまとって、権力を行使する。だからそれは、ありのままの私と私が行使する権力との落差(私は自分の機能のレベルでは完全ではない)を生み出すことによって、私を「去勢」する。これが悪名高い「象徴的去勢」の意味である。・・・去勢とは、ありのままの私と、私にある特定の地位と権威を与えてくれる象徴的称号との、落差のことである。この厳密な意味において、それは、権力の反対物などではけっしてなく、権力と同義である。その落差が私に権力を授ける。・・・ファロスとはいわば身体なき器官であり、私はそれを身につけ、それは私の体に付着するが、けっしてその器官的一部とはならず、ちぐはぐではみ出た人工装着物として永遠に目立ち続ける。  –––– S.ジジェクラカンはこう読め!』(鈴木晶訳)

 

男性の場合は、自分が持っているものを本当は持っていないということを、女性の場合は、自分が持っていないものを持っていないということを認識する –––– J.ラカンセミネールⅤ』(松本卓也訳)

 

 

『王様の選択』に戻ります。本作ではこの象徴的去勢が楽観的に描かれています。ファルス=社会的身分は、不相応な人間にとってしばしば苦しみの種となります –––– 監督自身、メイキングの中で本作のテーマが「バカな人」と「ふさわしくない仕事をしている人」であることを明かしています –––– 。背負いたくないのに、背負える人間じゃないのに背負わなければならない社会的あるいは生活的役割…。ファルスは重石になり得るのです。「じゃあ、いっそファルスを棄ててしまおうよ!」というのが本作の物語なのです。積極的にファルスと自分のギャップを自覚することで、訳の分からない苦しみから解放されよう!   

人びとが市長に続いて服を脱ぐあの滑稽なシーンは、ファルスに苦しむ人びとが象徴的去勢に進んで飛び込んでいく様子を描いているのです。

 

僕は最初に『王様の選択』をファルスの映画と言いました。いうまでもなく、それは象徴的去勢を描いた映画だからです。しかし、それだけではありません。本作を象徴的去勢を楽観的に捉えた作品であることを見逃してはいけません。これは〈笑劇〉なのです。だから、僕は本作を –––– 〈ファルス phallus〉と〈笑劇 Farce〉の二重の意味を込めて  –––– 〈ファルスの映画〉と呼ぶのです。

 

 

 

以上、1日目に観たショートフィルム2本の紹介・批評でした –––– 批評と呼んでよいのか自信はありませんが ––––。

2日目の紹介・批評は、次次回にします。

 

 

 

 

ショートショートフィルムフェスティバル 1

 

 

● はじめに

 

ショートショートフィルムフェスティバル & アジア 2018 in 横浜(SSFF & ASIA in YOKOHAMA) の感想を –––– 今さらながら –––– 書こうと思います。

 

www.shortshorts.org

 

この催事は8月17日(金)~ 8月19日(日)に横浜美術館にて開催された、ショートフィルムの祭典です。今年は日本最大級のダンスフェスティバル「Dance Dance Dance @ YOKOHAMA 2018」と共催しました。

わたし –––– と妹 –––– が訪れたのは18日(土)と19日(日)の2日間で、1日目には5本のショートフィルムを、2日目には4本のダンスをテーマにしたショートフィルムを鑑賞してきました。いずれもなんらかの賞を受賞した作品で、制作者は学生、アマ、プロ、企業など様々でした。

来客数は両日ともにほぼ満席でした。無料で観ることができる上に会場も決して悪くなかったためでしょうか。

 

 

 

さて、実はフィルムフェスティバルに訪れるのはおろか、ショートとはいえ、立て続けに3本以上の映画を鑑賞するのは初めてでした。面白い作品、興味深い作品を知ることもできました。従って、たいへん刺激的な経験になりましたし、最近のショートフィルムのシーンを若干ながらも伺うことができました。

 

ちなみにわたしは映画が好きですよ!観た数こそ少ないですが、一日中映画を観続ける生活を10年近く続けている友人に言わせると、どうやらわたしはシネフィルらしいです。つまり80年代の古臭い映画人。構造や物語性を深読みするような、ただ消費するということを楽しめない「うるせぇー人間」。だからこのあともうるせぇーこと書いていくつもりです。

 

9本すべての紹介・批評をすることは –––– 時間的にも体力的にも厳しいので –––– しませんが、フェスティバル全体の感想といくつかの作品の紹介・批評くらいできたらなあと思っております。

 

 

 

 

●作品の紹介と批評

 

神話の否定のアイロニカルな構造
『メリエム』

 

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Reber Dosky/0:16:00/オランダ/ノンフィクション/2017

 

最初に鑑賞した作品は、Reber Dosky氏による『メリエム』でした。本作はイスラム国の侵略に抵抗する戦士たち –––– 特に女戦士たちにスポットを当てたノンフィクションフィルムでした。

 

印象的だった場面は2つあります。

ひとつは、男の戦士がカメラマンに向かって「そんなところにいたら狙われるぞ」と笑いながら語りかけるところでした。女戦士たちもニコニコしている。銃撃音がすると「ほらね」なんて言ってる。

すぐ側で爆発や銃撃が行われているのに、みんな和やかなのです。この場面に非常にリアリティを感じました。たぶん、戦地ではこういう生死の危険を笑うことができるのだと思います。怯えることもあるだろうが、危険を楽しむこともあるに違いない。

この場面から、安吾の言葉を想起しました。

 

人間というものはベラボーなオプチミストでトンチンカンなわけの分らぬオッチョコチョイの存在で、あの戦争の最中、東京の人達の大半は家をやかれ、壕にすみ、雨にぬれ、行きたくても行き場がないとこぼしていたが、そういう人もいたかも知れぬが、然し、あの生活に妙な落着と訣別しがたい愛情を感じだしていた人間も少くなかった筈で、雨にはぬれ、爆撃にはビクビクしながら、その毎日を結構たのしみはじめていたオプチミストが少くなかった。私の近所のオカミサンは爆撃のない日は退屈ねと井戸端会議でふともらして皆に笑われてごまかしたが、笑った方も案外本音はそうなのだと私は思った。 –––– 坂口安吾 『続堕落論』 



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someshorts.com より

 

もうひとつは、女戦士の隊長と女戦士たちが対話をしたのち、隊長がカメラを前に自らの信念を語る場面です。

この場面では久しぶりに再会した隊長と女戦士たちが、それぞれの近況を語り合います。隊長への尊敬、友人との死別、自分の負傷を涙ながらに女戦士たちは語ります。隊長は彼女たちに言葉をかけ、肩を寄せて励まします。

やがて隊長はカメラを通じて私たちに語ります。「女は悪である」という神話は嘘であると。古代から女は悪いもの、穢らわしいもの、弱いものと扱われてきたが、いまはもう違うと断言します。「私たちの勇姿をみよ。そのような神話は葬られねばならない」と。

この瞬間、この戦いはイスラム国との戦いだけではない事実が明らかになる。彼女たちにとっては、女性性のための戦いでもあるわけです。

 

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someshorts.com より

 

ですが、ここに非常に難しいアイロニカルな問題があるように思われます。「女は悪である」という悪しき神話の否定はどこに行き着くのでしょう。道は様々でしょうが、次のような答えがあり得るのではないか。それは「女も善である」という答え、すなわち「女も男のようになれる」という答えです。

 

「女は悪である」という物語の裏側にちらつくのは「男は善である」という、もうひとつの物語です。この作品を観た人々は気づくはずです。彼女たちの勇壮な戦いぶりと、隊長の言葉が物語るのは、力強さへの憧れであることに。彼女たちは「女も強い」ことを主張しているのです。それが「女は悪である」「女は弱い」という神話の否定になると信じている。しかし、それは結局、「女は弱い」という悪しき神話を認めることになるはずです。

わたしがアイロニカルだと語る理由はここにあります。即ち、彼女たちによる悪しき神話の否定自体が、悪しき神話の支持を担ってしまっている事実です。真の悪しき神話の否定のためには、悪しき神話に依存しない方法を考えなければならないのではないでしょうか。

 

本作は神話の否定のアイロニカルな構造の提示を意図した作品ではありませんが、今日における一部の性差別撤廃運動の構造を見出すことが可能であると思います。

 

 

man(男)と woman(女)という二項対立があったとして、そこでは明らかに manが womanを暴力的に抑圧しているのだから、その二項対立を転倒し、 manに対して womanを復権しなければならない。しかし、 manとwomanは実は Man(人間=男)という土俵に乗っているのだから、そこで優劣を転倒しただけでは、ニーチェの言うように勝利した女が  男になった自らを見出すだけという結果に終わりかねない。したがって、転倒と同時に、 Man(人間=男)という土俵自体を脱構築していかなければならない、というわけです。 –––– 浅田彰デリダ追悼』

 

 

『メリエム』に寄せる感想は以上です。ちなみに、この作品の後に上映された『THE ANCESTOR』も男性性と女性性を扱った作品でした。

 

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小原正至/0:17:45/日本/アニメーション/2017

 

こちらの作品は毒舌な男とひ弱な若い男が、女に対する憎しみ、恨みを愚痴り合い、時に恋しさ、愛おしさを語り合うアニメーション作品でした。作品の最もたる主張は、「男女平等」の理念を追うのではなく、「男女の補い合い」の理念を追うほうがいいんでないかい?というものでした –––– とはいえ、最終的には世界滅亡で終幕なのですが… –––– 。

 

 

 

●展示の力学と順番の力学

 

初めて2本以上の映画を立て続けに鑑賞したからこそ気がついたのですが、上映作品の順番に意図が込められることもあるんですね。

美術作品の展示では、しばしば作品の展示の仕方がひとつの力となって、作品の印象や意味を変えることがありますが、それに似ているように思われました。

例えばカンディンスキーの絵画がポロックやデ・クーニングの絵画と共に展示されている場合と、シャガールやキルヒナー、エルンストなどの作品と展示されている場合とでは作品性が変わってきますよね。

展示の力学の意図と同じような試みが映画にもあることを知ったのは、大きな発見でした。

 

 

 

 

〈次回に続きます〜〉