ショートショートフィルムフェスティバル 1
● はじめに
ショートショートフィルムフェスティバル & アジア 2018 in 横浜(SSFF & ASIA in YOKOHAMA) の感想を –––– 今さらながら –––– 書こうと思います。
この催事は8月17日(金)~ 8月19日(日)に横浜美術館にて開催された、ショートフィルムの祭典です。今年は日本最大級のダンスフェスティバル「Dance Dance Dance @ YOKOHAMA 2018」と共催しました。
わたし –––– と妹 –––– が訪れたのは18日(土)と19日(日)の2日間で、1日目には5本のショートフィルムを、2日目には4本のダンスをテーマにしたショートフィルムを鑑賞してきました。いずれもなんらかの賞を受賞した作品で、制作者は学生、アマ、プロ、企業など様々でした。
来客数は両日ともにほぼ満席でした。無料で観ることができる上に会場も決して悪くなかったためでしょうか。
さて、実はフィルムフェスティバルに訪れるのはおろか、ショートとはいえ、立て続けに3本以上の映画を鑑賞するのは初めてでした。面白い作品、興味深い作品を知ることもできました。従って、たいへん刺激的な経験になりましたし、最近のショートフィルムのシーンを若干ながらも伺うことができました。
ちなみにわたしは映画が好きですよ!観た数こそ少ないですが、一日中映画を観続ける生活を10年近く続けている友人に言わせると、どうやらわたしはシネフィルらしいです。つまり80年代の古臭い映画人。構造や物語性を深読みするような、ただ消費するということを楽しめない「うるせぇー人間」。だからこのあともうるせぇーこと書いていくつもりです。
9本すべての紹介・批評をすることは –––– 時間的にも体力的にも厳しいので –––– しませんが、フェスティバル全体の感想といくつかの作品の紹介・批評くらいできたらなあと思っております。
●作品の紹介と批評
神話の否定のアイロニカルな構造
『メリエム』
最初に鑑賞した作品は、Reber Dosky氏による『メリエム』でした。本作はイスラム国の侵略に抵抗する戦士たち –––– 特に女戦士たちにスポットを当てたノンフィクションフィルムでした。
印象的だった場面は2つあります。
ひとつは、男の戦士がカメラマンに向かって「そんなところにいたら狙われるぞ」と笑いながら語りかけるところでした。女戦士たちもニコニコしている。銃撃音がすると「ほらね」なんて言ってる。
すぐ側で爆発や銃撃が行われているのに、みんな和やかなのです。この場面に非常にリアリティを感じました。たぶん、戦地ではこういう生死の危険を笑うことができるのだと思います。怯えることもあるだろうが、危険を楽しむこともあるに違いない。
この場面から、安吾の言葉を想起しました。
人間というものはベラボーなオプチミストでトンチンカンなわけの分らぬオッチョコチョイの存在で、あの戦争の最中、東京の人達の大半は家をやかれ、壕にすみ、雨にぬれ、行きたくても行き場がないとこぼしていたが、そういう人もいたかも知れぬが、然し、あの生活に妙な落着と訣別しがたい愛情を感じだしていた人間も少くなかった筈で、雨にはぬれ、爆撃にはビクビクしながら、その毎日を結構たのしみはじめていたオプチミストが少くなかった。私の近所のオカミサンは爆撃のない日は退屈ねと井戸端会議でふともらして皆に笑われてごまかしたが、笑った方も案外本音はそうなのだと私は思った。 –––– 坂口安吾 『続堕落論』
もうひとつは、女戦士の隊長と女戦士たちが対話をしたのち、隊長がカメラを前に自らの信念を語る場面です。
この場面では久しぶりに再会した隊長と女戦士たちが、それぞれの近況を語り合います。隊長への尊敬、友人との死別、自分の負傷を涙ながらに女戦士たちは語ります。隊長は彼女たちに言葉をかけ、肩を寄せて励まします。
やがて隊長はカメラを通じて私たちに語ります。「女は悪である」という神話は嘘であると。古代から女は悪いもの、穢らわしいもの、弱いものと扱われてきたが、いまはもう違うと断言します。「私たちの勇姿をみよ。そのような神話は葬られねばならない」と。
この瞬間、この戦いはイスラム国との戦いだけではない事実が明らかになる。彼女たちにとっては、女性性のための戦いでもあるわけです。
ですが、ここに非常に難しいアイロニカルな問題があるように思われます。「女は悪である」という悪しき神話の否定はどこに行き着くのでしょう。道は様々でしょうが、次のような答えがあり得るのではないか。それは「女も善である」という答え、すなわち「女も男のようになれる」という答えです。
「女は悪である」という物語の裏側にちらつくのは「男は善である」という、もうひとつの物語です。この作品を観た人々は気づくはずです。彼女たちの勇壮な戦いぶりと、隊長の言葉が物語るのは、力強さへの憧れであることに。彼女たちは「女も強い」ことを主張しているのです。それが「女は悪である」「女は弱い」という神話の否定になると信じている。しかし、それは結局、「女は弱い」という悪しき神話を認めることになるはずです。
わたしがアイロニカルだと語る理由はここにあります。即ち、彼女たちによる悪しき神話の否定自体が、悪しき神話の支持を担ってしまっている事実です。真の悪しき神話の否定のためには、悪しき神話に依存しない方法を考えなければならないのではないでしょうか。
本作は神話の否定のアイロニカルな構造の提示を意図した作品ではありませんが、今日における一部の性差別撤廃運動の構造を見出すことが可能であると思います。
man(男)と woman(女)という二項対立があったとして、そこでは明らかに manが womanを暴力的に抑圧しているのだから、その二項対立を転倒し、 manに対して womanを復権しなければならない。しかし、 manとwomanは実は Man(人間=男)という土俵に乗っているのだから、そこで優劣を転倒しただけでは、ニーチェの言うように勝利した女が 男になった自らを見出すだけという結果に終わりかねない。したがって、転倒と同時に、 Man(人間=男)という土俵自体を脱構築していかなければならない、というわけです。 –––– 浅田彰『デリダ追悼』
『メリエム』に寄せる感想は以上です。ちなみに、この作品の後に上映された『THE ANCESTOR』も男性性と女性性を扱った作品でした。
こちらの作品は毒舌な男とひ弱な若い男が、女に対する憎しみ、恨みを愚痴り合い、時に恋しさ、愛おしさを語り合うアニメーション作品でした。作品の最もたる主張は、「男女平等」の理念を追うのではなく、「男女の補い合い」の理念を追うほうがいいんでないかい?というものでした –––– とはいえ、最終的には世界滅亡で終幕なのですが… –––– 。
●展示の力学と順番の力学
初めて2本以上の映画を立て続けに鑑賞したからこそ気がついたのですが、上映作品の順番に意図が込められることもあるんですね。
美術作品の展示では、しばしば作品の展示の仕方がひとつの力となって、作品の印象や意味を変えることがありますが、それに似ているように思われました。
例えばカンディンスキーの絵画がポロックやデ・クーニングの絵画と共に展示されている場合と、シャガールやキルヒナー、エルンストなどの作品と展示されている場合とでは作品性が変わってきますよね。
展示の力学の意図と同じような試みが映画にもあることを知ったのは、大きな発見でした。
〈次回に続きます〜〉